2014年6月5日木曜日

映画:アクト・オブ・キリング

~前回までのあらすじ~
小学5年生の水島少年は父親がレンタルで借りてきた『ゆきゆきて神軍』をなんとなく流れで一緒に見てしまい、トラウマを抱えることになるが…!

こんにちは!!!涙

シアター・イメージフォーラムで見てきました。(『ゆきゆきて神軍』ではなく)

<激短!あらすじ諸島>
60年代にインドネシアで起きた共産主義者大量虐殺の「加害者」たちに、当時の殺戮行為を再現した映画を作らせ、その制作の過程をフィルムに収めた世にも恐ろしいドキュメンタリー。

まずインドネシアでこのような事件があったこと自体知らなかった。

一説によると犠牲者は100万人以上にも及んだそうです。そしてさらに驚くのはインドネシアでは今でも反共が国是とされており、この大量虐殺が正当化されているということ。そしてこの虐殺に加担した人たちは何の罪にも問われずいまも生きていて、さらには「国民的英雄」扱いすらされているということ。


・・・心が歪んでいる私としては、まずこの前提に「ミスリーディング」があるんじゃないかな?と思ってしまいました。というか、あってほしいと思ってしまいました。

というのも、インドネシアの国民がこんなに悲惨な大量殺戮の加害者を心の底から英雄として称えている、なんてこと、到底信じられないからです。 表向きは諂っていても、心の中では舌を出しているに決まってます。しかもインドネシアと一言に言っても、ものすごくたくさんの島で構成されている国ですし、地域差もかなりあると思います。「国民的英雄」という触れ込みがどこまで正しいかわかったものじゃないです。

・・・と、こんな甘ったれた思いを抱かずにはいられないほど、この(カッコつきの)「事実」は、僕にとって受け入れがたいものでした。ゆえに、僕はこの映画を「性善フィルター」(人は生まれながらにして善きものである)をかけて見ることになってしまいました。ショックを未然に防ぐ自衛本能でしょうか…。

するとやはり加害グループ「パンチャシラ青年団」の前で、一般人はどこか怯えた表情をしていて(その表情は完全にチンピラに絡まれたときのそれです)、これが彼らを「英雄視」するまなざしと言えるのか甚だ疑問に思いました。

そしてもちろん、この映画の主人公アンワルさんをはじめとする「大量殺戮を行った側」の人物からは、自分たちの罪に最初から気付いているような表情や発言をすくい取ることができます。自責の念に苛まれながら虚勢を張っているというしんどさ…。
この加害者たちはひょっとしてインドネシアで「国民的英雄」ではなく、「裸の王様」のように扱われているんじゃないか?とすら思いました。

フィルターをかけて見てしまったので「見たいものしか見ていない」と言われればそれまでですが、この一般の人々の「怯え」や加害者の「自責の念」こそ、このドキュメンタリーが捉えた多面体の一面であることは確かだと思います。(事実はもっともっと多面的なのだろうけど)
しかし、この「性善フィルター」のおかげで、ラストの展開にあまり意外性を感じなくなってしまったのは惜しいところです。(馬鹿)

あるシーンがとても印象に残っています。

とある地方で議員選挙に立候補した「パンチャシラ青年団」所属の男が選挙活動で挨拶まわりをするんですが、市民たちはその男に「平然と」賄賂をねだるのです。十分な賄賂を持たないその男は結局落選してしまいます。
このシーン、映画の中ではわりと「笑える」箇所として機能していたようですが、この地域の「腐敗感」を少なからず感じてなんだかすごくダークな気持ちになりました。

共産主義を排除しておきながら、だからといって民主的でもなく、地域に根差したプリミティブな秩序があるのみ。これは中東の民主化運動が軒並み壁にぶつかっているのにも通じる難しい問題です。人は「慣れ親しんだ環境」という「慣性」を失いたくないものなのだなーと思って、本筋とは別の部分で絶望的になりました。(まあそれを一言で「腐敗」と言うのも語弊があるとは思うんですが)

「善悪の区別がつかなくなる」とはよく言うけれど、そもそも善と悪とはそこまできれいさっぱり切り離せるものではなく、善悪どちらにもどちらかの要素がしみ出しているからこそ厄介。
さらに「善悪」とは別の地平に「慣性」というパラメーターの存在が。個人レベルの問題が政治性を帯びて集団の論理になったとき、さらに問題は複雑化して…。

しんどいわ。人間。

では!



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