2015年6月10日水曜日

7月1日

昨年(2014年)7月の集団的自衛権行使容認の閣議決定がどうしても納得いかなかったのか、そのとき感じたことを思うさま書きなぐったはいいが、自己検閲にひっかかりアップしないまま1年間下書きに入っていました。昨今の日本を取り巻く状況ともリンクする話なので、せっかくなので下書きから公開に昇格しときますです。ところどころリンクが切れていたりします。

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7月1日、集団的自衛権の行使容認を実現するべく、憲法解釈変更の閣議決定がなされました。政府はこれからこの解釈変更に基づいて、武力行使に関する様々な法律を整備していくでしょう。

この日を忘れないように、そして自分の考えを整理するために、この記事を書いています。大きく分けて「まず違憲な件」「国民の理解」「抑止力への疑問」「反対の表明方法」の4本でーす。

(1)まず違憲な件
まず日本国憲法に集団的自衛権行使を認めるような規定がないだけでなく、今回の決定は手続きの面でも問題があります。もし憲法を改正したいのなら政府は日本国憲法第96条にのっとり正当な手続きを踏まなくてはいけません。憲法を改正するのではなく「憲法の解釈」を変更し、またそれを国民に是非を問わず、「閣議決定」という形で承認するという今回の手法ははっきりと「違憲(憲法違反)」であり、憲法が権力を縛るという、立憲主義に反します。集団的自衛権の行使容認が違憲であるということになれば、今後集団的自衛権の行使に関連する国内外のトラブルで日本が訴訟を起こされた場合、莫大な損害賠償責任を負わなければならなくなります。

しかしなぜこんなに早く決めてしまったのでしょうか。憲法改正を発議し、国会で与野党が時間をかけて様々な議論を尽くすことが、結果として「国民の理解」へのひとつの道であるように思えます。しかし今回の「閣議決定」に至るまで、憲法解釈変更についての与党協議なる会議が「11回、計13時間」しか行われていないとのことです。これは回数としてはあまりにも少なく、時間としてはあまりに短いと言わざるを得ません。もちろんそこに民意は反映されていません。憲法を変える、という国家にとって重大な作業を拙速かつ密室的に行えば、国民の内閣への不信感は当然高まる…ぐらいは考えればすぐに分かりそうなものですが。今回の早急さは「国民の理解」を得る「戦略」としてうまくないと思いました。(ちなみに、憲法96条にのっとって憲法改正をする際行う「国民投票」の規定を定めた「国民投票法」という法律は、「第一次安倍内閣」(2006-2007)が憲法を変えたい一心でたくさんの批判を浴びながら成立させたものです。せっかく作ったこの法律、なんで使おうとしないんでしょう?)

(2)国民の理解
次にその「国民の理解」についてです。安倍総理は5月15日に団的自衛権の妥当性を国民に説明するための記者会見を行いました。そこで総理は集団的自衛権行使の事例を図解した「パネル」を使用していましたが、これらの事例は、集団的自衛権というより「個別的自衛権」と、「国連の集団安全保障の規定」で説明がつくものでした。奇妙な設定で説明しようとしたり、「日本人の親子のイラスト」を使い情に訴えてミスリードを誘うような場面があったりと、この会見自体の正当性に疑問を抱かざるを得ません。

ちなみにこの件が「国民の理解」を得られているのかどうか参考までに世論調査をみていくと毎日新聞が6月27、28日に行った全国世論調査では「政府が近く集団的自衛権の行使を容認する方針となったこと」について、「反対」が58%で、「賛成」が32%。日本経済新聞社とテレビ東京が27~29日に行った世論調査では「集団的自衛権を使えるようにすべきだ」との回答は34%で、「使えるようにすべきではない」は50%。だそうです。一方、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が6月28、29日に実施した世論調査では、「集団的自衛権について全面的に使えるようにすべきだ」が11.1%、「必要最小限度で使えるようにすべきだ」が52.6%になり、合わせて63.7%が行使を容認しているそうです。

この調査母体によるブレというか、偏り。国民の理解を得られているととらえるか、得られていないととらえるか。僕にはブレがあること自体が理解を得られていないことの証左のように思えるのですがいかがでしょう。


(3)抑止力への疑問
と、ここまで手続きのまずさを書いてきましたが、ここからは、仮に手続きが正当であったとして、集団的自衛権の行使容認は本当に妥当なのかどうかを考えてみたいと思います。

この件で僕が覚える最大の違和感は「抑止力」というロジックです。

総理はじめ与党のみなさんは、集団的自衛権を行使できる状態にしておくことが日本への攻撃を思いとどまらせるのだ、という論理で集団的自衛権の行使を容認すべきだと言います。

今の国際情勢において軍事的な「抑止力」と言った場合、当然最終的に「核兵器」を意味すると思うんですが(そのレベルの武力がないと抑止にならないという意味です)、非核三原則を遵守する限り日本は核兵器を保有できず、集団的自衛権の行使のみが「抑止力」を持つというロジックはなかなかに厳しいものがあるように思います。反論として「日本はアメリカの“核の傘”入っているのだから、日本が核兵器を持たずとも抑止力はあるのだ」と言うのであれば、それはいままでの日米安全保障そのものですので、「抑止力」のための集団的自衛権は必要ないという話になりませんか。

・・・う~ん。

百歩譲って核兵器を持たない軍隊(自衛隊)のみで「抑止力」たりえると考えるとしても、そのときはもちろん軍備を拡張しなくてはいけません。そしてまさかいまのままの自衛隊で敵国の「ガチ軍隊」に勝てるわけはないでしょうから、今以上に実戦仕様の過酷なトレーニングプログラムが必要になるでしょう。「集団的自衛権発動!」とかっこよく飛び出したはいいがフルボッコにされて帰ってきたら(帰ってこれたらまだいい方ですが)元も子もないわけで、要は自衛隊を「勝てる軍隊」にしなければいけません。そうすると、そこには莫大な金銭的および人的コストが必要になり、安倍総理の掲げる他の政策、例えば成長戦力や震災復興などに割くコストは自ずと削られていくことでしょう。ましてや「女性が輝く世界」とかそういうのはどんどん後回しになったりするでしょう。話がそれましたが。(補足しておくと、いまでも自衛隊のみなさんはものすごく過酷な訓練をされているということは存じています。そしてその活動に敬意を抱いています)

話を戻すと、抑止力を有効にするためには敵国と同等かそれ以上の武力を持たなければなりません。敵国が軍備を増強したらこちらもそれに合わせて増強・・・と力のインフレが起こり最後には必ず「核には核」という話になります。振り上げた拳の下ろしどころを見失い「すわ核戦争」・・・というのは、まんま冷戦時のキューバ危機ではないですか。この状態をして果たして「抑止」と呼んでいいのか、僕には甚だ疑問です。

それと、素朴な疑問として、集団的自衛権は同盟国(この場合アメリカでいいでしょう)への攻撃をトリガーにした、(日本の)武力行使の権利のはずです。「アメリカが攻撃された場合、(攻撃をされていない)日本がその反撃に加勢しますよ」というお話が、なぜ「日本への攻撃の抑止力」とか「自国の防衛」とかいう話になるのか、いままで納得のいく説明を聞いたことがありません(聞いたことがないだけかもしれませんごめんなさい。また僕の理解力不足であればそれもごめんなさい)。そもそも「日本を攻撃から守るための武力行使」であれば、大抵は「個別的自衛権」で対応できますし、集団的自衛権によるアメリカとの強固なつながりを対外的にアピールすることにより、日本がテロ攻撃の対象になるリスクが高まるのは想像に難くありません。僕にはこれは「抑止」というよりむしろ「危険への露出」に思えてなりません。

というわけで、「抑止力」というのは様々なパラメータがあり、やる前から「これは抑止力となります!」ときっぱり宣言できる代物ではないのではないかと思っています。

(4)反対の表明方法
長くなってしまいました。

最後に今回の件に関しての「反対の表明方法」について書きたいと思います。

今回の決定に「日本を戦争のできる国にするな!」「子供を戦争に行かせたくない!」といった感情的な物言いやましてや「安倍総理は独裁者!ファシスト!」などの中傷をもって反対意見を表明しても(それがたとえどんなに真摯で的を射た訴えだとしても)、残念ながら効果は期待できないように思います。そのような主張をしたところで、


と言われて終了です。
国民の「不安」は、「誤解」であると一蹴されてしまっているのです。

これで「僕たち私たちの不安は“誤解”だったんだ!な~んだ、よかった。集団的自衛権賛成ー!」となれればいいのですが、ここで思い出さなければいけないのはこれはあくまで憲法解釈変更の閣議決定であり、憲法96条に定められた憲法改正手続きではないという点です。

※ちなみに総理はこの後次のように述べています。「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし国民を守るための自衛の措置だけだ。外国の防衛を目的とする武力行使は今後とも行わない。万全の備えをすること自体が、抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」・・・。一応すべてにリアクションをつけておきます。「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし国民を守るための自衛の措置だけ」であれば個別的自衛権の範囲内ですし、「外国の防衛を目的とする武力行使は今後とも行わない」のなら集団的自衛権はいりません。「万全の備えをすること自体が、抑止力」か、どうかはわかりません、そうかもしれません、なんともいえません。ちなみに核は持つのでしょうか?最後「今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」・・・「論理の飛躍」という言葉が頭をよぎりました。

おかしい」「不安」だという気持ちを「誤解だ」とあしらわれ、いくら声を張り上げても決して取り合ってもらえない・・・。これはまるでディストピアです

そんな状況下で、我々は一体何をすればいいのでしょうか。デモ、音楽、踊り、…さまざまな手段で政府にやり方のおかしさを訴えていきたいところです。がしかしこんな風に感情を無下にする現政府に残念ながらポエジー(詩情)に共鳴する感受性はなさそうです。

感情が無効化された状況で我々に残された「反対意見の表明方法」は、「問題点を仔細に見て論理のほころびを逐一指摘し続けることではないでしょうか。論理的な思考で反対の言い分に説得力を持たせるのです相手がおよそ論理的とは程遠いように思えるのに、なぜこちらが・・・と憤ったりもしますが、それは置きます)

平和を希求し、戦争というオプションを本気で捨てたいと願う人々は今、感情以外の表現を持つ必要に迫られているのだと思いますそのためにはたぶん、勉強をしなければいけませんし、自分の頭で考えなければいけませんし、自分の意見を自分の言葉で言ってみなければいけません(この記事はその試みの一環です)議論を交わすなかで違う意見を持つ人からこてんぱんにやられることもあるでしょうし、到底受け入れ難い相手の言い分を理解しようと努力することも必要になるでしょう。

しかしそうやって我々がたくわえた知識やデータは、例えばデモなどの抗議行動で、次の選挙で、憲法改正の国民投票で、違憲訴訟で、必ず生かされると思います。それぞれのシーンで、その知識をもって冷静に判断を下し、一体どちらが「感情論」なのか、どちらが「ファンタジー」を抱いているのかを証明していくのです。

いやだからいやなんだ!」という駄々っ子のような態度は、あちらの「やりたいからやるんだ!」という態度とあまり変わりません。逆説的ですが、感情を自由に発露し、いやなものはいやだ、と自由に声を上げられ、それに「聞く耳をもってもらえる」社会を実現するためには、それなりの努力をしなければいけないのかなと思っています。めんどくさいです。極めてめんどくさいですが。

日本という国のあり方がいままでとは変わってしまった以上、自分たちも変わらなければいけない局面に来ているということなのだと思います。

では。